ちぐはぐなアルゴリズム
雑記 · zumisio
SNSを使い始めてから、もう10年くらい経つ。作った作品をアップしたり、展示の告知をしたり、フォローしている作家の投稿を見たり、DMで会話したりなどしてきた。知らなかった面白い作家を偶然発見することもある。そういう出会いはラッキーで嬉しいし、自分がこれまで出会ってきた作品や作家の多くは、ほとんどSNS経由だったのではないかと思う。なので、SNSそのものを否定したいわけではないが、ここ最近、特にイーロン・マスクによる買収以降、TwitterがXになったあたりから、明らかに何かが変わったように感じる。Xに限らずInstagram/Threadsも同様に。 タイムラインを見ても、自分が見たかった作家の投稿はほとんど見当たらず、暴力的なコンテンツ、煽るような文章、くだらない揉め事、刺激的な動画ばかりが流れてくる。フォローしている人たちの投稿は、いつの間にかどこかに埋もれている。どこに行ったのかと思って探しているうちに、気づけば別の投稿を見ていて、そのまま無限にスクロールしている。最悪だ。プラットフォームの設計があまりにも強すぎて自分では制御が出来ない。ここまでくると、少なくとも自分にとっては今のSNSはメディアとしてあまり機能していないのでは?という感覚になる。そもそも、編集者がいないのにメディアと言えるのだろうか。役割的には、アルゴリズムが編集者のポジションだと言えると思うがそのアルゴリズムは、現状あまり上品ではない。何を見せるかの基準が情報の質ではなく、どれだけユーザーをサービスに依存させるかに寄っているように感じる。こんな場所に自分の制作物や制作の記録をすべて置いておくことは、かなり危ういのではないかと考えるようになった。
今後も、ブログを更新したらSNSで通知くらいはすると思う。ちまちま続けていれば、アルゴリズムの海に流された投稿を、誰かが偶然見つけてくれるかもしれない。つまり、SNSをやめるわけではないという…ちぐはぐなことを言っているが、このちぐはぐな違和感をそのまま放っておくのは気持ち悪いからブログを始めようと思った。 ブログは、SNSから少し距離を取れる避難場所であり、自分が編集権限を持てる場所でもある。SNSでは、あらゆるものが自分では制御できない場所にある。何もかもがプラットフォームによって決められている。でも、自分のブログなら、すべてを限りなく自由に編集できる。 メディアとしては古い形式なのかもしれないが、ここまでSNSが荒れていると、むしろ批評的な形式にも見える。
SNS的な「人生総コンテンツ化」には、人生がプラットフォームに吸われていくような感覚がある。日常も、制作も、食べたものも、行った場所も、喜怒哀楽すべてがコンテンツになる。そして誰かのタイムラインに一瞬だけ表示され、すぐにどこかへ流れていく。 まったく同じことを自分のブログでやるということは、SNSとは少し違うのでは?と考える。 人生をプラットフォームに食わせるのではなく、自分で自分の生活や制作を編集することに近い気がする。自分のために残す。未来の自分が読み返せるようにする。日々の違和感や考えを、自分なりの形で置いておくという感じ。それなら非公開のメモでもいいのでは、と思うかもしれない。しかし自分にとってはインターネットに公開するということは、他人が読むかもしれないという事だ。この意識があると、ちゃんと書こうと思う。あんまり気にしない性格だがちょっとした緊張感を持つことは大事だと思う。
まだ書きたいことはあるし、考えもまとまりきっていない。ただ、とりあえず一発目の投稿をしないと何も始まらないので、今回はここまでにする。